社会人になって、「机が汚い。そんな人は仕事ができる人間になれないぞ」と言われる人は結構いると思う。お父さんもよく言われてて、その度に色々と思うことがあったりした。
「いや、汚いようでいて、自分的に取り出しやすいところに置いてるんだよ」とか、「いや、机が汚くても仕事できる人いるじゃん?てか、上司の机も汚いよ」
とか。この言い回しは、なんとなくおまじない的なイメージで受け止めていて、当時は結論として机を綺麗にできる管理能力を身につけて、その能力が仕事ができる人の条件になってるのかなー?とか、漠然と思ってた。そして、多少の努力はしたけど結局机は汚いままだった。
それから何年も経った現在。年下の同僚が同じ言い回しで上司に怒られてた。それを聞いて、さて、自分の机は‥?と見直してみると、‥あれ?きれいだ。若い頃は努力しても乱雑になっていた机が、今はすっきりしてる。しかも、特に意識したとか、無理をしたとかじゃなくて。なんでかなー?と考えてみて、言語化できたので書き残したいと思う。
結論として、根性論とかジンクスとか、そんな曖昧なものじゃなかったよ。いくつか伝えたいことがあるので、順番に書いてくね。
片付けられる人が仕事ができる人間になるわけじゃない
まずは、これ。冒頭で上司が言っていた「机が汚いと仕事が出来る人間になれない」は間違い。言葉遊びではあるんだけどね。
論理で言うと、仕事ができる人間は机が綺麗だが、机が綺麗な人間が仕事ができる人とは限らない って言い回しかな?
仕事ができるようになると、自然と机が綺麗になる仕事の仕方にまで意識が行くようになる。その結果、自然と机が綺麗にされる、というロジックだ。
ここでの仕事が出来る人間とは?
これが1番大事な結論になるけども。
お父さんの経験から導き出した答えは、「どこまでが仕事かを正しく認識できる人」だ。
例えば、「会議で使う資料をコピーしておいて」と頼まれたとする。この仕事に対して、大半の人は「書類をコピーするのが仕事だな」と捉える。でも、仕事ができる人は、「コピーした書類は会議で使うんだな。コピーしたあとは会議室に運んでおいたほうがいいのかな?それとも配っておいた方がいいかな?」と、コピーの先までを仕事として捉える。結果として、前者はコピーしたあと担当者に持っていく。そして会議までその資料は部署内に置かれたままとなる。後者は、コピーを始める前に、「コピーしたら会議室で配った方がいいですか?」と質問し、最終的に会議室の参加者の席に資料を配り終えた。さて、両者を比較してみて、資料はどうなったかな?と。前者は一時的な資料の置き場所が必要になって、後者は余分な置き場所を考える必要がなくなった。結果、後者はどこも散らかっていない。
これは一例だけども、もっと簡単に言うと、一般的な人は作業をすることが仕事、と捉えていて、仕事ができる人は片付けまで含めて仕事と捉えることができる。この意識の差が、自然と机の整頓に直結するというわけ。
現在の自分が当時の自分を振り返って
机が乱雑に見えて、自分のやりやすいようになってる。とか、机が汚くても仕事ができる人はいる、とか。今振り返ると、前者は、片付ける余裕はないけど、その中で苦肉の策で少しでも効率化しようとしたのであって、片付ける時間を作れない言い訳にしていただけだったし、後者は単に仕事の内の作業部分が出来るだけの人間だった、ということだったなぁ。と今の自分は思えてしまう。今のお父さんは本当に、特に意識しなくても机が片付いた状態になってしまう。
人によっては、考え方は人それぞれとか、根拠が薄い、とか反論はあるのかもしれないけど、少なくとも自身の経験から言語化したものだから、嘘ではない。改めて、自分は成長できたんだなぁと感じるとともに、この考え方を広められたらなぁと思う。
まとめ
机が綺麗なことと、仕事ができることの関係について、本質と思ったことを書きました。この記事では、仕事のあとの片付けまでが仕事という意識、という内容で書いたけども、他にも仕事の途中の物の管理の仕方に対する意識とか、色々気を配るところはあります。大事なのは、机がどうこうだから仕事が〜ってことではなく
どこまでが仕事なのか、という意識を高く持つこと
机がどうこうだから出来る出来ないではなく、仕事が出来る人は自然に机が綺麗になるから、しごできがどうかの判断基準になるよー
という2点をお伝えする内容でした。
余談だけど、仕事のうちものを探す時間は無駄な時間だけど、年間で150時間あるらしいよ。整理されてたら、その時間も短縮できるから、さらに仕事が出来ちゃうね。是非、今回の記事を仕事や生活に取り入れてみてね。
それじゃ、またねー